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考える力は暗記の後で伸びてくる

本日の日経新聞朝刊。教育再生問題に関する杉田久信氏のレポートが掲載されていました。リードに曰く「教育基礎学力の徹底こそが教育再生の核心だと指摘する」。

昨今、どうもあらゆる局面で「自由と創造」が言われすぎている感じ。本や文書の読み方でもそうだし、教育でももちろんそう。スポーツや習い事なんかの趣味の世界でも「自由」の綺麗事ばかりまかり通っていたりする。

1989年に「新しい学力観」が登場したころから(中略)反復学習が「詰め込み教育」「個性を殺す悪しき鍛錬主義」だと見なされ、「自ら学び自ら考える」を目指す「新しい学力観」に対立する「旧い学力」の典型と受け止められたからである。

もちろんこういう「新しい学力観」が「制度」として教育現場に定着するには、制度化以前の社会動向が前提にある。即ち1989年以前に「個性」が強調されすぎる風潮があり、それが「新しい学力観」に繋がっていったと考えるべき。

面白いことにちょうどその時代、誰もがひとかどの人物であるかのように喧伝されたバブル時代でもあった。そういう時代背景から生じた「新しい学力観」の登場で「基礎的な計算力や言語能力が著しく落ちていった」。

長く知恵として受け継がれていたと思われる(創造性などというものは)

読み・書き・計算といった確かな基礎学力の上に初めて成り立つものなのだ
というあまりに当たり前のことが忘れられていってしまった。
どんな習い事も、反復せずに身に付くものなどありえない
という自明のことが無視され始めてしまった。

もちろん「新しい学力観」というのが生まれた背景には、それ以前の時代の弊害があることは間違いない。「基礎の徹底理解」をさせる能力のない教師が「詰め込み」に走ったりした。しかし「学校」というフィールドだけでなく、場を広げて考えれば「徹底理解」が必須であるのはあまりに明白なことだった。

「詰め込み」に対する嫌悪から、あまりに反動的になって「ゆとり」に走った教育の現場。その影響は既に広く行き渡ってしまっているように感じる。教育現場を「修繕」して、世間の思考スタイルを「無知蒙昧なる自由」から脱せさせるには、相当長い時間がかかりそうな気配。

そういえば「知らしむべからず、由らしむべし」なんて言葉があった。「ゆとり教育」ってのは穿ってみればそういう「政策」だったのかもしれません。