中学生の頃ってのは、まあなんでも吸収する「可能性」を持つ時期。そこで吸収するものが良いものであれ、悪いものであれ、ね。
なんか信仰告白みたいになっちゃうわけだけど、中学生の頃、結構アサヒにはまっていました^^。まあ大阪の、いわゆる同和教育指定校みたいなところに在籍していたことも考慮に入れておいて欲しいんだけれども。
そんな中。いろんな意見のある本田勝一にも当然凝った時期があった(今日が本田勝一氏の誕生日だと知ってこのエントリを書いています)。彼の主義や事実選択のあり方にはさまざまな批判もあるけれど、選択後の事実を文章にする方法は確かに勉強になった。中学1年のとき、この本に出会ったのは意味あることだったと今でも思ってる。
まあ入手できる限りの本多勝一を読んで、それから離れていくことになった著者。中学生時代の私には良い「経験」ではありました。
本多勝一絡みでアサヒの話をすると。
「学歴社会批判」や「教育制度批判」をするアサヒが、「入試で最も使われる新聞です」と自慢することに矛盾を感じてはいた(そう、アサヒは入試に良く出るということを30年前から自慢し続けてる^^)。でも矛盾を感じながら中学1年から2年ほど、毎日「天声人語」と「社説」をノートに転記してた。著者が変わって視野狭窄に思えるようになるまで続けたな。
「やらなきゃ良かった」という経験もたくさんしてしまう時期だったけど、アサヒ関連の経験はそれなりに意味があったかな、と。
但し、今の「天声人語」とかを見ると、書き写しに意味があるとはちょっと思えないですが(^^)。