前回に引き続き、柳家一琴のネタ下ろしに行ってみた。演目は
- 時そば
- 野ざらし
- 火事息子
■ 時そば
ネタ下ろしで「時そば」と言われるとちょっと驚くよね。素人からすると、噺家はみんな「時そば」なんかはやれるものだと思ってたりする。でも3月20日の末広亭では桂文楽が昼席のトリでやっていたりしたなあ。
ともかく、この日、一番驚いたのも実はこの話だった。「ネタ下ろし」なんて言われると、ちょっとしたトチリや気になるところを期待(?)してしまうものだけど、完成度が高かったように思った。この点さすがにメジャーな演目ということなのかな。独自の(?)くすぐりの数々も十分にこなれていた感じだった。
さほど好きな演目ではないんだけれど、十分に楽しめる内容だった。
ところで全くの余談だけど、この落語では「割り箸」を「良い物」として扱ってる。一時期の「環境ブーム」の頃はやりにくいネタだったりもしたのかなあ。このネタを聞くたびにそこが気になってしょうがない。
■ 野ざらし
尚、好きじゃないと言えば「野ざらし」もあまり好きな演目じゃない。見所は歌だけかなあ。骨を釣りにいく八つぁんのバカバカしさが唐突すぎて何も感情移入できるところがないからかなあ。
あるいは「十六、八」「シチは流れた」とか「こういうことだ」そういうことか」や、「陽気な鐘の音」、「紙入れを懐にしまったな」、「つかつ、で表に出てしまう」なんていうさして面白くもないクスグリが多すぎるからなのか。
はたまた話が面白くないのは共通認識で、よってクスグリ連発の話として定着してきたものなのか。サゲもいろいろな版があって、それもまた噺の面白くなさを示すもののように思ってしまう。
今日のネタ下ろし会に行くかどうか悩んだのもこの「野ざらし」があるせいもあった。わりと「積極的に聞きたくない」話だったりするわけ。
魚釣りに来ている人を巻き込んでの馬鹿騒ぎも唐突な感じで、同じような展開をみせる「湯屋番」に比べても「とってつけた」感じがしてしまう。
なんてことをさんざん書いてWikipediaを見てみた。
古今亭志ん朝によれば、この噺で最も難しいのはサイサイ節である。(6代圓生の専売特許だった「庖丁」で「八重一重」、「三十石」で「舟唄」が最も重要なのと同じ) そしてサイサイ節がこの噺のクライマックス、聞かせどころである。後の落語家たちにとって、高い関門となった。
ああ、やっぱりそういうことなんだよね。聞き手にその「サイサイ節」を楽しむ能力がなければ楽しめない噺ということだ。ぼくにはまだ敷居が高い。
と、演目自体については文句ばかり言ってる。ただ本日の噺は別に「つまらない」なんとは感じ無かった。話もしっかり流れていた感じがしたな。また、これまでに聴いたものと比べると、最後に出てくる「幇間」に存在感があった。「野ざらし」の従来型からするとずれるのかもしれないけれど、幇間の存在感の出し方次第では、ぼくのように教養レベルの低いものにも楽しめる話になるのかもと感じた。
■ 火事息子
と、いうわけで本日一番期待して出かけたのはこの火事息子。手元には志ん朝のCDがある。ただこれもまだ聞き込んだわけじゃなく、流して何度か聞いたくらい。この日聞きに行く予習に最後の部分をちょっと聞いてみたんだけど、そのうちにもっと時間をかけて聴きこもう。
で、この日の話。出だしがかなり志ん朝版とは異なっていて、もしかしたら同じタイトルの別噺かと思った。もちろんそんなこともなく、「三代目桂三木助師の型」だとのこと。またいろいろな演者のものを聴いてみようと思う。
~ 生意気注意
・屋根の上の番頭の振る舞いが、あまりに軽すぎるように思った。屋根の上での息子との会話は、まるで定吉がしゃべってるみたいだった。
・息子が火消しにならないように親方に手を回したって話はあった方が良いと思う(志ん朝版にはある)。一時の気の迷いと干渉した結果、親の側にも引け目ができてしまったことが話の展開に繋がると思う。ただこれはぼくが志ん朝版にのみ引きずられているせいかもしれない。
あるいは息子の進路にちょっかいを出してしまった後悔のニュアンスが入らない代わりに、志ん朝版にはない(?)乳母の話が入っているのかもしれない。動機付けの方法が全く違っているということなのか。これはちょっと勉強してみなくちゃいけないな。