気になったこと日記 on はてな

突然ですがこちらに移転しました。

ぼくはラグビーについては言いたい。

『考える』ラグビー」の記事を考察する。ラグビーについては、どうしても何か言いたくなる性格でもあるので、くどく、かつ長文になることは申し訳ない。

尚、前にも記事に書いているけれど、とにかく今年の早稲田ラグビーは弱かった。私はそれを「同じ過ちを続ける」というふうに総括した。

わかりやすく私の観点で図式化すると次のようになる。

早稲田ラグビーの輝いていた頃に選手として活躍した清宮。そして早稲田ラグビーが昔二部に落ちていた頃を除けば最底辺にいた頃にプレイした中竹。しかもそんな時代にあっても「特殊な経緯」で主将に就任した中竹。

清宮は最底辺に居続けた早稲田ラグビー部の監督に就任し、再び早稲田ラグビーを光の当るところに連れてきた。その後を継いだのが中竹。清宮スカウトの選手を多く擁しながら今年の大学ラグビー界で結果を残すことができなかった。

そんな前提を持って、「 『考える』ラグビー」の記事を読んだ。

記事冒頭から反論したいことはあるんだけど、些事になるので割愛。

時見氏の記事では、清宮体制から中竹体制になって監督の学生に対するアプローチが180度変わったことを強調する。細かい指示出しなすべきことを与える清宮と、学生に考えさせそれを見守る中竹の対比を描く。
これは Number の記事に対する感想として書かれているんだけど、こういう比較はどんな分野でもいつも行われている対比で、個人的には食傷気味に感じる。

この対比の前に、ずっと続いていた早稲田ないし学生ラグビーの低迷を考えるといい。あるいはラグビー自体の環境がここ20年で激変していることから、社会人ラグビーの成長を考えるといい。

大学・社会人の格差拡大は、環境の変化に伴う「ノウハウ蓄積の差」によりもたらされたと言える。検討記事中にもあるんだけど、日本は「ラグビー三流国」。そんな中何もせずスカウティングだけした(スカウティングにも大いに不満が残るけれど)「小藪ジャパン」という日本代表がどれだけヒドイ目にあったのかを思い出したい。「個の自由」を標榜しているかに見えた「平尾ジャパン」が、「日本ラグビー」に何も残さなかったことを思い知りたい。

ラグビーの三流国である日本のラグビー環境において、世界のノウハウを意識した指導が悪いものなのかどうか。選手に決まり事(ラグビーにおいては選手に決まり事が多いことこそが競技を魅力的にしていると思う)を守らせて、しかる後の「個の力」を期待するのは順序が違っているのかどうか。

検討している記事にある。

佐々木が「考える」といっているのは、出された命題にどう答えるか、といった種の「考える」である。答えを「考える」ということで、必要な定理をよく覚え、後は正確に演算するだけだ。その際の判断基準や、定理や、演算方法は全て外部(清宮)に用意してもらったものだ。いわば受験勉強みたいなものを、佐々木は「考える」といったのだろう。

これはあまりに乱暴で強引な結論に思える。ある分野において「考えることすらできないレベル」が存在するということを看過しているように思われる。

前にどこかの記事にも書いた。

私は、いきなり茶会に誘われたことがある。どう振る舞えば良いかと問うて「自然に、自由に振る舞ってください」と言われて大いに困惑した。こちらは茶会の作法など(相手の想像を絶するほどに)何も知らない。用意された環境(茶会)の中で、「自然に、自由に」振る舞うことこそ「理想」なのだが、私にその「知識」がない。

そのような環境(茶人五流である私の環境)において、私を救ってくれるのは「伝統の知恵」。それが大げさであれば「知識の積み重ね」だ。五流のまま20年間茶会で「自由に」振る舞えば作法もものになるかもしれないが、その間に失うものも多く、私はむしろ指導してくれなかった人を恨むだろう。

「何も発想できない相手」に、何も伝えられないものは「文化」ではない。

しかし中竹監督が選手に課した「考える」は、おそらく「問いを立てる」ということなのだ。言葉を変えるなら「疑う」ということだ。人間の「考える」という作業の本質は「答える」ことではなく「何を問うか」であり、何を問うかによってその思索の価値が決まるといってよい。

これも検討する記事にある文章だ。この判断はあまりに「結論ありき」の筋道にはまっていて全く同意できない。

効率よくチームを強くするなら、清宮監督のような卓越した戦術眼を持った指揮官が戦術をチームに効率よく落とし込んでいくほうがよいのだろう。しかし、学生ラグビーは勝つだけのものではない。すくなくとも、日本というラグビー3流国の、しかもトップカテゴリーではない大学ラグビーを好き好んで観戦する私のような人間にとってはそうである。負けた今年のチームは、十分に魅力的だった。

これもまた学生スポーツを論じる際のステレオタイプな論議。あま、見る側の論理はどうでも良い。それは見る人個々が持つ論理。

しかし清宮監督時代に再び「大学レベルで超一流」の輝きを持った早稲田大学ラグビー部であることを前提としたい。

その中でラグビーをプレイしようとする選手のほとんどは既に大学レベルで一流の選手。彼らに「知恵」を継承できない指導者ならいらない。「知恵」を継承されることによって、「次のレベル」の楽しみを得たであろう選手に対して、非常に残念なことだったと思う。「知恵を継承できないこと」が往々にして「自由」という評価に結びつくことを危惧する。

個人的に趣味としている囲碁の世界でも常に感じることだけど、「何も知らない人間の自由」などあり得ない。その囲碁の世界で、あり得ないことを夢想する人があまりに多いことに驚いている。ラグビーの世界に「知恵こそ向上に繋がる」と発想しない人がいることに驚きを禁じ得ない。

早稲田ラグビーは低迷を脱するためにさまざまな手を打ってきた。過去五年、それが結実した五年間だった。しかし今年の「早稲田ラグビー」を見ると、その結晶がまた失われるのではないかという、「かなり具体的な」不安を抱いている。