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古今亭志ん朝「宗珉の滝」に関するちょっとした疑問

以前紹介した古今亭志ん朝の「ぼく」発言。

この話はDVD所収「宗珉の滝」でのもの。「ぼく発言」はすごく気に入っているんだけど、この話自体はどうもすっきりこないところがある。

出だしはありきたりなのかもしれないけれど、わりと好きだ。「これが私の作品です」と、虎の彫り物を見せると、見せられた宿屋の主人が「なぜ死んだ虎を掘るんだい?」と問いかける。芸術作品にありがちな「幻想」だと切り捨てる意見もあるだろうけれど、江戸時代のこと、埋れている目利きがこんなところにいる可能性だってないではない。

彫物師曰く、あちこちを回って同じ彫り物を見せたけれど、虎が死んでいると評したのは自分の師匠についで二人目だとのこと。ここまで宿屋の主人の「目」の卓越性が語られる。

そこから話が自然に進むかと思うと、実はこの話、何度かねじれる。

最初のねじれは宿屋の主人と彫物師の仕事への向き合い方。彫物師が酒を飲んで仕事にかかるのを、躊躇いつつも認めてしまう。プロである彫物師に対する敬意と見えなくもないけれど、「目利きぶり」と相反するとも言えそう。

まあそれは細かい話。二度目に持っていくものが前作よりも明らかに優れていると太鼓判を押したのに殿様に買ってもらえないというのもまあ納得できる。

しかしすごく不思議に思うのは、結局買ってもらえた彫り物を、この卓越した目を持つ主人が見て全く評価できなかったところ。それまでの作品よりもまずく、とても買ってはもらえないと判断してしまったところだ。

結局この作品、手に持てば手が水に濡れ、紙の上におけば滝の飛沫で髪が濡れるといった逸品。「素人の浅はかさ」と言えばそれまでだけれど、すると「師匠についで二番目」に正しく虎を評価したという目利き話がちょっと納得し難くなってしまうように思う。

同じようなネジレは「抜け雀」でも語られることがある。手持ちの志ん朝版では紙に書いた「雀」は、よくみれば確かに雀に見えるとなっている。しかし他の演者では、よくみても雀に見えないというふうに語られることがある。

個人的には「抜け雀」の雀はきちんと雀に見えるべきなんだと思う。そういう思いから言えば、この「宗珉の滝」の彫り物もやはり、宿屋の主人が三度目の作品の中に何らかの魅力を発見してしかるべきだったと思ってしまう。

考えようによっては「噺」を作る上での「小手先」の部分かもしれない。ただそこがひっかかってなかなかこの「宗珉の滝」を繰り返してみようという気にならないでいる。

今のところまだ見つけられてないんだけど、ぜひ他の演者でも聴いてみたい。

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