『号泣する準備はできていた』読書メモ
ほとんど読んだことのない人の作品を読んだ。
「小さな毛糸のキャップをかぶっていたり、外国製のシャツを着ていたりする男の子たちだ。彼らは例外なく親切で頭が悪く見えた」ということばに「あはは」と笑ってしまうぼくにとっての同時代作品集(短篇集)。
たとえば元気な女の子は「(無免許の)寛人の運転を恐いとは思わなかった。男の人はみんな運転ができるものだと、信じ込んでいたのだ」という無邪気さを発揮したりする。本当は「恐くなる」ことへの想像力の欠如だったりする話。これは「じゃじこじゃこのビスケット」という話の中に出てきたエピソード。
「タバコ配りガール」という話には「百合には食べられるチーズと食べられないチーズがあり、それを自分で判断できないのだ」というエピソードが出てくる。「百合」とは、ここでは女性だ。
ちなみに食べ物の判断ができないのはうさぎも同じ。うさぎの食べ物については飼い主が気を使うしかない。妻はしばしばうさぎのごはんをまず自分で食っていた(腹が減っていたわけではないらしい)。
「洋一も来られればよかったのにね」という姑からの台詞に対しては「自分が誰のものでもなかったころの、恋一つで人生がどうにでもなってしまったころの、本質的な記憶」を呼び起こしてしまうのが、ぼくらの時代の女性であったらしい。
それでいながら女性から「肉体関係がないのにプロポーズするというのがそもそも間違っている気もする」という言葉がでる時代にもなっていた。
だけど時代は基本的に「純朴さ」をもっていたのかな。
どうしてー、とか、けちーとか。語尾をのばす大人は、ばかか優しいかのどちらかだ from どこでもない場所 via 『号泣する準備はできていた』
— maeda hiroaki (@torisan3500) 2014, 3月 22
こんなことを言っても、馬鹿とは思われなかった。
時代的には『ノルウェイの森』に繋がりそうな感じだけれど、自分としてはこちらの方が作品として楽しむことができた。