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陳腐すぎる IT 批判@日経オピニオン

的はずれの批判をすれば、たとえ批判対象におかしなところがあっても、その対象に益することになる。だから批判というのはきちんと論点を絞り、論理的に行わなくちゃいけない。

本日日経オピニオン面の「インタビュー領空侵犯」にあった童門冬二氏の IT・現代社会批判は「やっちゃいけない批判」の代表のようなものだった。

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まず議論の導入に当たっての例示が不適切に過ぎる。

曰く、タクシー運転手がカーナビに頼るようになって、人の意見を聞かなくなったという話。タクシー運転手には悪いけど、彼らの「マナー」については数多発言が繰り返されている。そもそもいろんな面で問題になる対象を取り上げて「IT に依存が過ぎる人の代表」のように書いても全く共感は得られない。

また「IT 依存」の別の例として「携帯電話で電子メールを打ちながら、街中を歩いている人も見かけます」として、それが「電子機器に支配されている」ことを意味すると主張する。

歩行者が携帯電話に表示されるナビに従って歩いているのなら、もしかするとそういう批判も成立するかもしれない。しかし歩きながらメールをするというのは、周囲に対する配慮ないし感性の欠如を意味するに過ぎず「電子機器に支配されている」ことには繋がらない。

不適切な例示が終わってとどめは電子メールが登場した頃から繰り返される陳腐な例示。

職場では、隣の同僚を昼食に誘うのにわざわざメールを打つ社員がいると聞きます

「電子機器に支配されている」とどめの例示で、「会心」のつもりなんだろう。「嘘だと思うでしょうけど、本当にそんな人がいるんですよ!」と。

ただ、あらゆる局面でこの例示は間違っている。まず「インパクトがあるだろう」と考えたのが間違い。この例を見ても「ああ、いるけど何?」と感じる人も相当数だと思う。日経読者ならその率も高いと思う。また、反批判として何度も言われてることだけど「わざわざメール」という感性がずれている。

おそらくは非常に限定的なシーンを童門氏自らの中に空想して、そしてその中で電子メールを使う滑稽さのイメージにとらわれてしまったのだろう。しかし96年くらいに登場し、その後ほとんど見かけなくなった陳腐な批判を陳腐と感じない感性をむしろ笑われてしまうことになる。

身近な例を示すことを終えて、次の段に入るための「権威の例示」がなんと『1984年』であることも失笑を招く。否、むしろ文章全体がパロディとして楽しまれ始めるかもしれないが、ともかくここまでいってしまえば「批判」としての役割を担うことはあり得ない。

結論としては「対面コミュニケーション」や、「人間性」の話に持って行きたいのだろう。でもここでも「メールで議論をするな」という、95年くらいから言われ続けている陳腐な主張に終始する。テクニカルであるべき議論と、ノミニケーション(あ、この言葉はダサすぎる…)の区別を行わない主張で、この手の主張はバブル終焉とともに葬り去られたというのが通説かと。

50代以上の部長やなんかが部下に言い聞かせるなら、部下は一応聞くだろう。但し話が終わった瞬間から「あのダセー話聞いたかよ」というメールが行き交うことになると思う。5月病の時期、この話を得々と聞かせる上司がいるなら、それだけで会社をやめる若者がいたとしても不思議じゃない。

50歩ほど譲れば「陳腐であることは罪じゃない」。しかしこのインタビュー記事は罪だと思う。

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