ネタとして(だけ)楽しめる『三色ボールペン名作塾』
決して読むことはあるまいと思っていた本何だけど、読んでみたら大いに笑えた。
本書によれば「名作」を読む目的は「優れた物語の持つ普遍性を『概念化』して、いつでも瞬時に取り出すことができるようにする」ことだとしてる。そして「今を生きるための指標の一つ」とするのだそうだ。
まあ本書を受け入れてもらうリップサービスなんだと思う。でもここまで進んだ段階(p.10)で読むのをやめたくなった。本を読む目的など自由だけど、小説なんかを読んで「今を生きるための指標の一つ」としてる奴にろくなのがいた試しがない。
読者への例示として『檸檬』を挙げてるんだけど、そのまとめ方が凄い。「たった一個の檸檬が憂鬱きわまりなかった心を軽やかなものに変えたことを思い浮かべ、自分にとっては何が『檸檬』になり得るかを考える」。このように、名作は「心の処方箋」になるのだと言う。
以降、この本は「名作」(この選択基準にはとくに反対意見もない)を引用し、それに三色ボールペンでマークを付けて紹介してる。引用の間や最後に引用文中で言われていることを繰り返して述べ、最後に筆者の見解を2、3行紹介するという体裁。
こういうのを読む暇があれば、オリジナルを書棚から引っ張り出して読む方がよっぽど面白いけれど、ひとつだけ大笑いできるものがある。それはすなわち著者の「まとめ」。これは最高に面白い。同じような読書趣味を持つ人と、しばらくの間は酒の肴にできそうだ。
たとえば『羅生門』については「老婆を反面教師とするところに、『羅生門』を読む深い意味がある」。ここまで「いつ読むのをやめようか」と思いつつ読んでいた本書、このまとめを読んで最後まで読むことに決めた。それほど大ウケなまとめだった。
もちろんその後も期待を裏切らなかった。
『山月記』も取り上げられている。「思春期時代を、尊大な羞恥心と臆病な自尊心で過ごす例が多い昨今、その時期を迎える前にぜひとも読んでおいてもらいたい作品である」ときた。ちなみに表現的に誰もが面白いと感じる「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」というのは原文にあるもの。山月記がいきなり中二病の本になってしまった。
先にも書いた『檸檬』については「身体感覚の爽やかな目覚めを描いた作品」となっている。どわ~。『檸檬』に爽やかさを感じる人がいることは勉強になったけれど。
宮沢賢治については『よだかの星』を取り上げつつ、『雨ニモマケズ』も援用する。その両者から「自分の利害関係を抜きにして、客観的に物事に対応しようとする力は、今の時代にもっとも欠けている」という教訓を引き出す。
谷崎潤一郎の『春琴抄』からも現代的な教訓を読み取る。「強い女に唯々諾々となっているように見える谷崎作品の男たちだが、何かをきっちり背負う意識を持たなくなった今の男たちのほうが情けなく思える。この名文を身体に刻み込んでほしいものである」。
なんかさ。どの作品でも「強く生きろというメッセージが聞こえてくる」なんて解説でも良いんじゃないかと思うよね。接続詞だけ気を付けてさ。「むしろ強く生きろというメッセージ」とか、「やはり強く生きろというメッセージ」とか。どの作品についても当てはめられると思うよ。
『清兵衛と瓢箪』も面白い。「志賀直哉自身、乳との確執父との確執(注:引用時の文字間違い、コメントで教えて頂きました)があった。(中略)志賀直哉にとっての『瓢箪』は『文学』だった。大人になっても、いつも自分の心に瓢箪を持ち続ける。瓢箪は、こだわりであり、夢であり、希望だ。そういうものを持って生きることの力強さを教えてくれる小説である」。
あはは。やはり「生きろ」というメッセージで全部解決できちゃうわけだ。
いろんな背景を持つ坂口安吾の『桜の森の満開の下』も、やっぱり「生きろ」だ。「人のいない満開の桜の森で、一人でじっと虚空に耐えることができるか。このイメージをつねに心に宿らせておくことで、寂寥感、敗北感、喪失感といったものに打ち克つ力が湧いてくるだろう」。
なんか「生きろ」にも食傷して「むしろ逝きろ」な感じもしてくる。「生きる」にはいろんな障碍もある。そういうものに対峙して整理して行かなくちゃならない。だから「名作」を読んで頑張って生きろと言う。川端康成の『伊豆の踊子』については次のようなまとめ。
「心にアナザー・ワールドを持ち、ときどき疲れた精神を洗濯に出すという着想は、男女に限らず再生に役立つだろう」。
なんかさ。サービス精神といえば聞こえが良いけれど、本書のほとんどは読者への「おもねり」でできているように感じるね。その態度は気持ち悪い。ただ居酒屋で友人と語るネタは無尽蔵に提供してくれる。
但し周囲の耳に注意しないと、本気で「生きろ」を語ってると不気味がられるかもしれない。
角川書店
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