大学生になった瞬間(18歳のとき)。ぼくは「大学で学ぶ資格を得たぼくは何を勉強しても良いのだ!」と、むちゃ浮かれてた(笑)。
合格発表の日に、大学近所の古書店で法学、経済学、物理学、化学なんかの本を買いまくって帰った(笑)。
18歳の頃。「大学生になったのだから、何でも勉強できるはず」と思い込み、初期に購入したのが『トーテムとタブー』。トーテムのことすら何も知らないぼくに読みこなせるはずもなく、大いに衝撃を受けた(笑)。
— maeda, h (@torisan3500) 2022年10月20日
下の写真は #放送大学 の『発達科学の先人たち』。 pic.twitter.com/nJKpnAImLZ
家に帰ったぼくは、もちろん呆然とした。書いてあることが何もわからないのだ(笑)。ぼくはそんなにバカなのかと大いに反省した。でも、一応、大学に入学を許可されたんだから、少しはお勉強もできるはずだと思い込み、買ってきた本に対峙した。
結局、、、わからなかったなあ(笑)。
大学に入学した当時(1984年)は、まだ構造主義だとかがはやっていて、社会学的研究も盛んな頃だった。だからぼくは当然にレヴィ・ストロースやフロイトに挑戦して玉砕してたな(フーコーやデリダやアルチュセールやバルトにだって玉砕した^^)。
当時のぼくは「何でも勉強したい」という僭越な願いから、「領域横断的」な学問スタイルを(無謀にも)追いかけていたんだ。
大学4年になる頃に、まずは自分の専門をきちんと勉強しなければ「領域横断」なんてあり得ないことがわかった(笑)。わかってからの勉強は楽しかったなあ。「領域横断」的であろうとする焦りとか、あるいは奢りみたいなものが消えた。
そんな当時のことを思い出させてくれる本に出会った。見田宗介の『社会学入門』だ。
嗚呼、18歳の頃、それがわからずに随分回り道をしたな。
— maeda, h (@torisan3500) 2022年10月17日
> 社会学にとって重要なことは、「領域横断的」であるということではないのです。「越境する知」というのは結果であって、目的とすることではありません。
via 『社会学入門』(見田宗介)https://t.co/o3jsMLIqd3
そうなんだよ。「越境する知」は「結果」なんだよなあ…。最近また「リベラル・アーツ」なる言葉が(ちょっと)流行って、それを低レベルに強調しようとする池上彰なんて存在もある(目立つ人らしいので例に挙げただけで、彼に何の興味はない)。
「プレゼンテーションが大事」なんてことで、法学的知識もなにもない中学生に「死刑廃止論」を語らせたりするのも「脱・知識重視」なんてことで推奨されたりする。
幸いに大学に入った人たち。落ち着いて勉強しよう(^^)。1週間も部屋にこもって本を読み続けることができるのは、大学時代くらいしかないよ(普通の人には)。「ガクチカ」なんてのはバイト、サークル体験になんて存在しないよ。しっかり学ぼう。
18歳の頃は、『子供の誕生』が気になれば、食パンを齧る以外の何もせず、ひたすら読み続けることができた。
— maeda, h (@torisan3500) 2022年11月2日
ありきたりだけど、あの頃は恵まれていたなあ(^^)。 https://t.co/qCRZue4CAc
「基本が大事なんだよ、ボケ」のタイトルは、もちろん自分に向けた言葉。大学に入って、最初から「自分の専門に邁進しよう」という気持ちを持つことができていれば、勉強はもっと楽しかったかもしれない。
最近、ぼくは放送大学に入学して「教育学」系を勉強している。そこで学生時代に必死に学んだことが活用できることを知り、大いに喜んでいたりする。必死に学んだ「専門」こそ、自分の応用力になっている。
みんな! カルイ「リベラル・アーツ」なんていう糞言葉は放り出して、しっかり自分の専門を勉強しようよ。そんなスタイルこそ、自分を成長させてくれるよ。
オチがなくてごめんなさい(^^)