ゲマインシャフト via 上野千鶴子
フェミニズムも上野千鶴子もずっと避けてきたぼくだけど、今、プチ「上野千鶴子ブーム」が来ている(笑)。
読んでいるのは『家父長制と資本制』。
マルクスが考察外としたことを即座に「マルクスの限界」と言い募るのは、フェミニズムの特徴的言説。ただ、上野千鶴子は特徴的言説を用いつつ、そこで勝手なマルクス主義援用(?)勝手論説に走るのではなく、正しくマルクス主義の可能性・正当性を探る姿が面白い。
繰り返すけれど、フェミニズムも上野千鶴子もずっと触れずにきたぼくだけに、この本の面白さが素直に感じられるように思ってる。
たとえば。レベルの低い話かもしれないけれど、「ゲマインシャフト」について、上野のいうような着眼を持たなかった自分を恥じる。
「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」という歴史的移行を定式化した時、テンニースは、ありもしないものを過去に仮構するというロマン主義的な錯誤を犯していたにちがいない。
— maeda, h (@torisan3500) 2023年3月10日
via 『家父長制と資本制』(上野千鶴子)https://t.co/YEy5D61DkR
この「錯誤」可能性を思わなかったのは、かなり恥ずかしい。
「家族」の特性が、ゲマインシャフト的な要素──愛、融和、慰め等々──によって語られるようになったのは、むしろ、近代形成期以降である[落合恵美子 1989『近代家族とフェミニズム』]。
— maeda, h (@torisan3500) 2023年3月10日
via 『家父長制と資本制』(上野千鶴子)https://t.co/r0uhSSfkt0
「ゲマインシャフト」がむしろ近代的フレームワークであるとすれば相当面白い。そんな面白いことは、当然自分でも考えてみるべきこと。そこに至らなかったぼくは、(知ってるけど)かなりの馬鹿だ。
思い起こせば「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」の知識は高校時代のものだ。それから一切、更新することなく還暦間近まで過ごしてきた。ぼくも「ゲマインシャフト」→「ゲゼルシャフト」の「流れ」を信じてしまっていたのだ。
そこに反省のきっかけを与えてくれた上野千鶴子に感謝する。ぼくみたいな馬鹿には、この本は相当に面白い。
P.S.
ちなみに上野が言及する「テンニース」。ぼくは「テンニエス」と教わったな。と、思ったら岩波文庫の表記も「テンニエス」だ。学会では「テンニース」が標準なのかな? よくわかんない。